愛されているが能力がない人は、社会では仲間はずれにされる

自己評価は、自己愛・能力肯定・自信の3つの柱からなっている。

 

そして「自分は愛されている」という実感と、「自分には能力がある」という評価で、総合的な自分に対する評価がきまる。

 

ただしこの2種類の自己評価は、バランスが取れていないと、総合的な自己評価が不安定になる。

 

たとえば自己愛に満ちていても、客観的な能力がない場合は、周囲に子ども扱いされる

 

周りからチヤホヤはされるのだが、重要な仕事は任せてもらえない。

 

集団や組織、ビジネスの根幹に関わる話に、客観的な能力がない人間を混ぜると、組織やビジネスがグチャグチャになりかねないので、愛されているだけの人間は混ぜてもらえないのだ。

 

そうして、愛されている人間であっても、能力が認められなければ蚊帳の外に追い出されるから、いくら自己愛に満ちていても自己評価は下がるだろう。

 

一方、客観的な能力があっても愛されない場合、周囲の人間とは、仕事上だけのつきあいになってしまう。

 

周囲の人間は、役に立つから自分とつきあってくれるが、人間として自分と接してくれないため、息苦しくなる

 

たとえ誰か優しくしてくれる人がいたとしても、この人は自分が利用できる人間だからつきあってくれるんだ、…と言う風に邪推してしまいかねない。

 

そして仕事の能力が自己評価の全てになるので、仕事で失敗できなくなるし、少しでも失敗すると、自分は生きている価値がない人間だと思ったりする。

 

こういう風に、自己愛が足りている人は能力を欲し、能力が足りている人は、自己愛を欲することになるので、2種類の自己評価のバランスが悪いとどちらか低い方の自己評価で不満を抱くことになる。

 



仕事はできるが自己愛がない人は、寂しい

愛される存在であると言うことと、仕事ができると言うことは、別の評価である。

 

そのため、いくら周囲から愛される存在でも、仕事ができないなら蚊帳の外に追い出される。

 

家庭でも、大人の話に子どもは混ぜてもらえないが、そういう感じで子ども扱いされてしまう。

 

しかし自己愛が強い人は自己評価が高いので、自分も責任ある仕事を任せられたり、重要な会議に参加する能力があると主張する。

 

そして自分が受け入れられていないことに対し、抗議するために切れたり暴れ出したりする。

 

なまじ愛されているという実感があるため、「これは絶対おかしい、不当だ」って気持ちになるらしい。

 

しかしそれを訴えるだけの実績もないし、訴える論理的能力も実際のところないので、切れたり暴れ出すしかないというわけだ。

 

一方、仕事はできるが自己愛がない人は、重要な仕事は任せられるし、会議にも参加できる。

 

しかしそれ以上の「人間としての」つきあいはないため、やはり不安定な状態に陥ってしまう。

 

仕事をしくじると、生きている価値もなくなってしまうため、仕事を失敗するのが怖くなり、それがまたストレスになってしまう。

 

仕事は大してできないのに、家族に恵まれ、楽しそうな人生を送っているヤツを見ると、俺はこんなに頑張って世の中の役に立っているのに、なんで自分はこんな風に寂しく生きているんだろう、などと思ったりする。

 

そして自分の目の前にも、優しい奥さんと子どもが現れないかな、などと夢想したりする。

 

これも自己愛と能力肯定の評価のバランスが悪い例だね。

 


このエントリーをはてなブックマークに追加